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【アラベスク】  第14章 kiss



第2節 本気の証 [15]




 やらなければいけない仕事はわかっている。だが、例えば嬉しいと思った時、自分はいったいどうすればよいのだろうか? 笑えばいいのだろうか? それとも心内を隠して無表情を通せばよいのだろうか?
 相手の手の内を常に探りながら行動や表情や仕草の一つ一つまでを決めていた劇場での生活が、茜の身には染み付いてしまっていた。何も気にせずに素直に行動するという考えがわからなかった。
 そんな茜にとって、例えば慎二の母親である聖美(きよみ)などは、本当に太陽のように見えた。生きる力に満ち溢れていて、見ているだけで幸せになれる。
 幸せだ。このような人の姿をいつでも見ていられたら、それだけで幸せになれる。
 やがて茜は、明るく朗らかで元気に満ち溢れた、心に思った事をそのまま実行できる人間を好んで目で追うようになった。
「ですから、私にとって詩織様のような方は、まさに理想のお方なのですよ」
 ニッコリと微笑みながら堂々と告げられると、言葉に詰まる自分の方がおかしいのではないかと思えてしまう。
 いや、実際、変なのかもしれない。だって、彼女は間違った事は言っていない。嘘も言っていないし、他人に迷惑を掛けるような事も言っていない。ただ好きな人を好きだと言っているだけなのに、なぜこちらは言葉に詰まるのか。変だと言うのなら、それはむしろ自分の方なのではないか。
 好きな人がいるのに、ハッキリと口に出すこともできない。
 目の前で堂々と胸の内を明かす幸田と比較して、美鶴は自分がひどく卑しくて小さな人間に思えた。
「つまらないお話をしてしまいましたね」
「あ、いえ」
「使用人の身の上話なんて、おもしろくもないでしょう。お客様に対して、失礼な事を申しました」
 幸田は座ったまま深々と頭を下げ、だが上げた顔はどこか嬉しそう。
「でも、美鶴様に聞いていただけて、よかったです」
「え?」
「知っていただく必要はありませんが、やはり親しい方には聞いていただきたいので」
「聞いて、いただきたい?」
 親しい方、というのは自分の事だろうか?
 それほど親しく付き合っているつもりはない。霞流家を出てからはほとんど付き合いもないはずだ。親しいと言われる覚えはない。
 だが美鶴は、否定はしなかった。
 親しくたって、別にいいじゃない。
 そう自分に言い聞かせてみると、なぜだか胸の端の方にくすぐったさを感じ、だがそれよりもこちらの言葉の方が気になる。
「聞いてもらいたいって、その、ストリップ劇場で働いていた事とか?」
「それもありますし、私の今までのすべてですね」
「知ってもらいたいんですか?」
「はい、親しい方には、本当の自分を知ってもらいたいものですから。昔は知られたくないと思っていたのですが、なぜでしょうね、このお屋敷に来てから、不思議と知られるのを嫌だとは思わなくなりました。むしろ聞いてもらいたいとすら思います」
 昔は嫌だった。自慢できる身の上でもないし、話せば同情を誘っていると誤解されそうで、それも屈辱だった。
 なのになぜだろう、今は穏やかに話す事ができる。
「きっと、安心できるからですね」
「安心?」
「はい。本当の事を話しても、同情を誘っているなどと誤解されるはずがない。自分が好意を持った相手ならば、私の話を屈折して解釈などしないはずだ。そう思えるのです。きっとこのお屋敷の人々が、私の話を素直に聞いてくださるからかもしれません」
「霞流さんも?」
「はい、慎二様も、栄一郎(えいいちろう)様も、木崎さんや他の使用人の方も」
 そうして幸田はテーブルへ視線を落とし、盆に二人のカップを乗せ立ち上がった。
「淹れなおしてまいりますね」
 そう言い残すと、足音も立てずに部屋を出て行った。

「慎二様に救われたのかもしれません」

 やっぱり霞流さんて、本当は優しい人なんだよな。
 でも、ストリップ劇場なんかに行っちゃったりもするんだ。
 残された美鶴の胸に、複雑な心情が()()ぜになって漂う。
 綺麗だったな。
 幸田の話をぼんやりと思い返しながら、美鶴は窓の外を見遣る。
 冷たい景色。でも空気は澄んでいて、清らかな景色。
 母の詩織を好きだと口にする幸田の表情は少し恥ずかしそうで、でも嬉しそうで、そして綺麗だった。
 滋賀で対岸を見つめるツバサの表情も綺麗だった。
 辛い思いをしているはずだ。悩み事をいっぱい抱えて足掻いている。
 幸田だって、辛い思いをたくさんしてきたはずだ。劇場で働いていた時だって、楽しい事ばかりではなかったはずだ。人間関係には嫌気がさしていたと言うからには、悩みだって抱えていたに違いない。でなければ、霞流家の使用人に転職などはしなかったはずだ。同性に寄せる想いにだって、全く葛藤が無かったワケでもないだろう。
 美鶴は目を瞑り、上を向いた。

「なぜでしょうね、このお屋敷に来てから、不思議と知られるのを嫌だとは思わなくなりました」

 それって、本当の自分に自信があるからって事かな。だったらすごいよな。私には無理、か。
 無理かもしれないけど。
 大きく息を吸い、そしてゆっくりと吐く。
 どのみち、このままでいいってワケにはいかないんだ。
 なんだろう? なんとなく、心が軽くなったような気がする。聡や瑠駆真の本気を見せられても、全くこのような気分にはならなかったのに。なぜだろう?
 幸田さん、どうしてこんなに親切なんだ? それは私が好きな人の娘だから? それとももっと別の理由?

「慎二様はそういうお方なのだと、私は思っております」

 私の気持ち、知ってて?
 目を開くと同時、扉が遠慮がちに開いた。途端に美味しそうな香りが漂う。振り返る先で幸田が笑った。
「ちょうどクッキーも焼きあがりましたよ」
 香ばしさが、美鶴を優しく包み込んだ。





 駅舎に来て。
 そのメールをもらった時、聡の胸の内には喜びと不安が同時に沸いた。本当に、喜べばいいのか落胆すればいいのかわからなかった。
 放課後に駅舎へ行くのは日課のようなものだ。言われなくても行くつもりだ。それは美鶴もわかっているはずだ。わかっていてわざわざこのようなメールを送ってくるなんて、いったいどういうつもりなのか?
 考えると、不安が徐々に拡大していく。
 昨日の事、怒ってるのかな?
 ソファーに美鶴を押し倒した。瑠駆真に突き飛ばされ、連れて行かれた。その後はしばらく呆然としていた。部屋を出たのは昼ごろだったと思う。
 どうしよう。
 考えても頭がまわらない。
 自分はなんて事をしてしまったんだ。とにかく、なんとしても謝らなければ。
 そう思うのに、身体が動かない。携帯にメールを送る事すらできない。
 怖い。
 メールを送って、どんな反応が返ってくるのか、それを思うと送れない。

「サイテーだな」

 夏の夜闇に響いた声を思い出す。
 今度こそ、もう許してはもらえないかも。
 そんな絶望にも似た感情が渦巻く心内に、絡むような焦慮。
 瑠駆真は、美鶴をどこへ連れて行ったのだろう? あの後二人は、どこで何をしていたのだろう? これでますます瑠駆真は、美鶴からの信頼を得てしまうのだろうか?







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